2021年大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一について調べてみた。
目次
生い立ち
本名:渋沢栄一。生誕:1840年3月16日。郷里:現埼玉県深谷市血洗島長男として生まれる(幼名は栄二郎)。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕の製造販売を兼営し米、麦、野菜の生産を手がける富農でした。
14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となったそうです。
一方で5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)の許に通い、論語を始め四書五経や日本外史を学び、尾高惇忠から事業家としての下地が養われたのではないだろうか?
尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ
二十代になると江戸に留学し坂本竜馬と同じ「北辰一刀流」を学びます。(竜馬は桶町千葉道場、栄一はお玉が池の千葉道場)この頃には尊皇攘夷の思想に目覚め、道場の門弟と一緒に横浜外国人居留地を焼き討ちする計画を立てたりしています血気盛んな青年だったようです(高杉晋作も英国公使館焼き討ちしてますけどねw )。
その後いろいろあって江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになるそうです。(その後の将軍に仕えるなんてどんな引きの強さなのか汗 ここでも兵力集めに手腕を発揮します。)
幕臣となりヨーロッパへ
主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となり、フランスに渡航。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、まだ各国を回る予定でしたが大政奉還に伴い帰国します、この頃にいろんな刺激を受けたんでしょうね。
静岡藩、民部省・大蔵省時代
その後、静岡藩に仕えることにした栄一、しかし静岡での活躍を聞いた大隈重信は新政府に仕える様に渋沢を熱心に説得し、明治2年(1869年)11月には新政府に出仕することとなった。(大隈重信に説得されるってどんなスゲェ人材なのw)
実業家時代
その後、大久保利通や大隈重信と対立し退官し、(ここからスゴイっす。)
・第一国立銀行(現みずほ銀行)の総監役に就任。 ・三井組の頭取に自ら就任・東京貯蓄銀行(後の協和銀行、現:りそな銀行)を設立し、栄一は取締役会長就任。
・熊谷銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)の設立発起人)
・日本勧業銀行(後、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)、明治33年(1900年)日本興業銀行(現:みずほ銀行)、北海道拓殖銀行、いずれにおいても設立委員として開業を指導
(なんかいろいろやってます汗、とにかく新政府で大蔵省に士官していたため銀行関連で能力を発揮!)
事業会社一覧
・平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)創業を支援。
・秀英舎(現:大日本印刷)の印刷業創業の創刊を支援。
・中外物価新報(現:日本経済新聞)の創刊を支援。
…全部書こうと思いましたがキリがないので止めました(スイマセン続きはWikipediaで)。とにかく現在も続く数々の日本の企業の設立に関わってます、松下幸之助さんや本田宗一郎さんが小さく見えるほどの働きっぷりびっくりした。
それでは最後に渋沢栄一の名言を最後にお別れしたいと思います。
「もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である。」
足早に書いてきました。全然知らなかったけど本当にすごい人でした。
これからのドラマが本当に楽しみですね!